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世界

板東俘虜収容所 「歓喜の歌」

懇意にしている社長からある会合と知事の講演会がある事を知らされて出席することになった。

ホテルの大広間は各企業から260有余名の参加者を得て盛大に催され、三回に渡っての席替えが行われ企業アピ-ルを主体とした会のため会場は熱気に包まれた。

最後の席で右隣となったのが78歳地元のある社長だった、先般の愛媛県南予地方を襲った大雨、その大被害を受けた山間の町の出身である、話はその事にまず及び仕事から趣味へと話は弾んだ。

ビ-ルのピッチが上がった彼は、会社社長の顔から冗談の通じる饒舌なおじさんに変貌して思わぬ話に話題は移った、近日仲間と台湾旅行を計画している彼の口から徳島県鳴門市郊外に在った、「板東俘虜収容所」名前だけは存じていたが仔細を知らなかった私は耳を傾けた。

敗者の子孫のその苦渋経験ゆえに相手を思う人間愛に私の心は揺さぶられた。

四国八十八箇所巡りのお遍路さん、鳴門海峡の渦潮で呼ばれる徳島県鳴門市その郊外に綺麗な白亜の洋館が建っている。「ドイツ館」と呼ばれるこの建物には第1次世界大戦で捕虜となって日本に移送されたドイツ兵士たちがいた。

この土地は「板東」と呼ばれていた頃、町民との交流の歴史が刻まれている、ドイツから遠く離れて日本に連れて来られたドイツ兵捕虜は約4600人いた、そのうち約1000人が板東俘虜収容所に収容されたのである、「板東俘虜収容所」は1917年春、桜が舞う季節に新設された。

板東俘虜収容所所長は44歳の松江豊寿、陸軍のエリート軍人の彼は戊辰戦争に敗れた会津藩士の子、降伏した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育った苦労人であった。

彼の脳裏に「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けがあれば」そう嘆く周囲の大人たちの苦悩の表情を幼い松江は忘れることが出来なかった。

松江は捕虜を犯罪者のように扱うことを固く禁じた、捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解する松江ならではの収容所運営だったのである。

「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ・・・」

松江所長は捕虜にまずこう語り掛けた。

鉄条網の中で囚われの身、そこで「歓喜の歌」(ベートーヴェンの交響曲第九番)を歌うに至った彼らの数奇な運命と、それ以降日本に根付いたドイツ文化に注目するところである。

ドイツ兵捕虜たちは、松江所長への信頼と板東の人々に対する親愛の情を深め、収容所で結成されたヘルマン・ハイゼン楽団によって、ベートーヴェンの交響曲第九番が合唱付きで全曲演奏された。

ドイツ兵捕虜の心からの「歓喜の歌」が日独の信頼と以降の友好に繋がっていくのである、民族の違いを乗り越えた先には人間愛が花開くことを示している。

ビ-ルの所為ばかりではない、頬を赤くした彼は、愛媛県知事肝いりで実現した松山~台北間航空便の実現を心から喜んでいた。

その後の知事との面談は、知事が市長の時代に私が発した希望の歌に遡ったのである。

ドイツ兵捕虜「板東俘虜収容所」を語るたびに酷寒の地 北朝鮮で夜毎空を仰いで救出は待ちわびる日本人拉致被害者の身の安全を思うのである。

彼の国は、拉致被害者に暖かい人間愛を示しているだろうか、第二の松江所長がいることを願って筆を置く。

被害者放置は許されない、全員無事帰国してこそ両国の明日が見えてくるのである  !?

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