三つ子の魂百まで
You Tubeの動画にサバンナで繰り広げられる弱肉強食がある、強者が一方的に襲って弱者は為すすべがない、私には耐えられない画面展開である。
ひと思いに息の根を止めればまだ納得せないでもないが、殆どは弱い物がなぶり殺しで生き絶える、自然の冷徹な現象というにはあまりにも残酷である。
漠然と見逃す人が殆どであるが、私はこれらを現在の人間界に当て嵌めて見る癖がある、世界各地の民族紛争はその最たる悲劇である。
国によって、民族の起源によってその残酷さは鮮明に現れる、神を恐れぬ国家、畏れを抱くものがない無神論者の国々、その上に独裁を押し付ける指導者の国、何をか言わんやである。
国民はこのようなトップの下では自由を望むべきもない、
私自身、回顧に見る残酷な一面が思い出される、それはとりも直さず人間とは残酷な生きものの証明なのかもしれない。
冷静に考えて見ると幼稚な子供には他者に対する思いやりが欠けている、学んでいないのだから良し悪しの見境がつかないのである。
親の教え、学校での教育、その中で知能が芽生え、道徳心を会得する、私が今でも鮮明に覚えている胸つく思いがある、
高校生の頃、同級生のAと遊んでいた時の事である、彼は空気銃を手に近所の広場で樹々に飛び交うスズメを狙って引き金を引いた、落下して来たスズメはまだ生きていた、
可哀想なのでトドメを刺そうと2度目の引き金を引くも彼の動揺もあって失敗した、更に慌てた彼は泣きそうな顔をして何回目かで終わった。
今だに記憶から消えない怯えたスズメの姿、銃口を見ながら恐怖に身をすくめるスズメの姿、彼は2度と空気銃を手にすることはなかった、
何十年前のあの日がサバンナでの襲われる弱きものたちへの姿と重なるのである。
その記憶の更に向こうに小学生の私が取ったネズミたちへの仕打ちがある、Aと寸分も違わないその仕打ちは、無知だったとは言え、私のトラウマとして後悔の渦に立たされる事になる。
成人してから、人を痛める徒手空拳の武器を手にしてから、私の弱者への労りは加速した、その悲しみ、痛みをずっと昔の弱きものたちへの鎮魂に向けるようになったのである。
色々な経験を積むことで人間は常識を会得する、そして理性を積み上げる、しかし、元来備わっているが深層心理の底に隠れている冷酷さは何かのキッカケで表に浮上して来る。
それが、戦場に立たされた人間の残忍性なのではないか ?
我が県の高校柔道でY高B主将とともに双璧をなしたK高主将C、私の無二の親友が「お前は刀を振り上げたら必ず振り下ろす !」 真顔で述べた事がある。
私の根本を見抜いた言葉だったのかも知れない、表と裏腹にことに臨むと冷徹な自分がいることを私は自覚している、普段の穏やかさはその反証である。
私は、さらに自戒の言葉として受け取っている、人間の冷酷さは生まれついて備わっている負のスパイラル、アフリカサバンナで繰り広げられる悲劇は明日の人間の姿なのかも知れない。
三つ子の魂百まで、雀百まで踊り忘れず !?