「言葉の行間」と「行間を読む」
安倍総理の70年談話についていろんな論評がなされている、
マスコミに於いては自分たちが構築した歴史認識から総理が
逃げられないように準備したキーワードとして。
特に朝日新聞や毎日新聞等は面白半分に騒ぎ立てた、
そこには世界へ向かって語る総理へのいや日本国民としての
謙虚さは微塵もなかった。
安倍総理はこのキーワードを見事に逆手に取った、
私を含めて大多数の国民は、村山 小泉元総理の談話を頭に
浮かべ期待薄の心持でそれを待っていた。
「行間を読む」という見事な方法は期待していなかった分
鮮烈に国民の心に焼き付けて離さない。
日本語の綾、大和民族の忍従のなせるわざ、見事だったと
云うことに尽きる。
後は、当てにしたくもない外務省という優秀を鼻に掛けるも
実力を発揮できない、発揮しない無能役所の広報活動に対し
叱咤という棒で叩くことである。
何故なら今まで散々諸外国に遅れを取ってきた集団の低能に
怒りの限界点に国民がいるということである。
この談話に際して感じたことは、言葉と言うものの大切さ
危うさ、双方の意味を噛み締めている。
手前味噌になるが、近しい中にも礼儀あり、
慣れと甘えで、つい言葉が粗雑になる、油断して横柄な言葉
使いをしていることに気がつく、それも後から、しまったと。
他山の石としたい。
ふたりの間では、ぞんざいな言葉でも理解し得ることでも
第三者が介在すると、その行間 (綾) が 判り得ないから
「あれっ? おやっ!」 と言うことになる、誤解である。
「行間を読む」
安倍総理の前任者の楔から国民及び日本の自爆史観を取り
除く崇高なる技に依って日本語の奥ゆかしさを改めて感じて
いる。
安倍総理の
「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、
謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」
この言葉に感銘を受けない国民はいない、
安倍総理を憎み、日本が正常な国へ戻ることを忌み嫌う
政治家、マスコミ等 売国奴 以外は・・・。
「言葉の行間」 「行間を読む」 日本語の奥ゆかしさ。
日本の国の可能性に期待し、生まれ変わる国民の自信
を取り戻すために、日々精進したいものである。
日本よ 負けるな !?