ついにその日が 訃報に接して。
私の交友録の中で特筆すべき男がいた、彼の名はM・K
Y市役所福祉事務所主催の手話講習会が開かれることになって
私は参加した。
記憶が定かでないが50人ぐらいの受講者がいて、その中でも
男性は数名にしか過ぎなかった。
松山からA先生が講師として見えられたが年配のお方でそれは
優しい先生だった、聾唖協会からも随時 数名参加していた。
講習会が進むほどに手話の収得が早まり、聾唖者と手話での
会話が不自由なく出来るようになった。
それまでのわが町の聾唖者は一般の市民と触れ合うこともなく
会話すら出来なかった、音のない孤独な世界に居たのである。
講習会も無事終了して手話サ-クルを立ち上げることになり
手話サ-クル あゆみの会 が発足する。
初代会長はキリスト教会の牧師さんに決まりにぎやかなサ-クル
が始まった、男性は私を含めて4~5名 他は女性会員が多数を
占めた、その中にM・Kさんがいた、地元新聞社の記者だった。
彼との運命の出逢いだった。
手話サ-クル あゆみの会発足から半年後、会長と聾唖協会会員の
間で不協和音が生じ、現会長からバトンタッチを受けて私が二代目
会長に就任することになった。
聾唖者との交流は楽しくも嬉しいものだった、
夏の海水浴、活動の中に常に聾唖者の姿があった、町で出会っても
私達を見つける彼らの表情は、今までとは違って心からの笑みが
もれた。
その後、私は家庭の事情でY市から松山へ転居を余儀なくされサ-クル
をM・Kさんに託すことになった、実質 あゆみの会 中興の祖が彼で
あることに異論はない、それほど彼の活躍は目覚しかった。
松山転居後の私の生活は一変して、苦労の時代が長らく続くことになる、
そこからサ-クル会員との別れが始まり彼との縁も途絶えることになった。
私の癌闘病記、命の瀬戸際、その数年後彼も同じ病に泣くことになった、
私は完治したが、彼は幾度となく入退院を繰り返すことになる。
初めは見舞っていた私だったが、途中から見舞うことをやめた、
そこには私の癌手術時の覚悟が影響していたのである。
私は、がんを手術した際、命の終わりを覚悟した、家族との別れに 悶々と!
家族だけに見送られてこの世を去ろうと決心したのである。
人の縁、この世の全ての事象から、自分を消し去ろうと決めたのである。
だから竹馬の友にさえ知らさなかった、友から後でこっぴどく叱られたが ?
そういう理由で、人生の整理に臨む友人の尊厳を冒してはならないと考えた
のである、それは非情ともいえる考え方であることは承知している。
あの時、死を覚悟した私の経験から導かれた想いだった。
千葉県の知人にある贈り物をするため高島屋で買い物を済ませた、
その足で時々お邪魔する喫茶店へ入ったのであるが地元の新聞 県紙を開いて
彼の死を知らされたのである。反原発の闘士は顔写真入で報じられていた。
伊方原発反対闘争に身を投じていた彼は、サ-クル時代に生い立ち等を私に
打ち明けてくれていた、思想的には別々の道を歩んだ二人だったが人間として
は堅い信頼と友情に結ばれていたのである。
それ以来、彼の意思ではどうにもならない運命を私は密かに心配していた、
それが現実となり、風雪を越えて最悪の結果を迎えることになった。
ただ、呆然とするばかりだったが、その時、携帯電話が鳴ったのである、
共通の友であり介護施設の理事者、私の高校の二年先輩女性Aさんだった。
葬儀告別式は近親者で行い、後日しのぶ会を開く予定。
A先輩と近日お悔やみに出向く、戦友とも言ってよい思想を越えた友だった。
彼は私の立場、行く道の違いをよく理解してくれていた、そして黙って眺めて
くれていたのである。
涙を流す姿を誰にも見られたくない、弟にも等しい男だった、
今夜は、ひとり彼との思い出に浸りたい、だが 悔しい、残念でならない。
サ-クル発足当時 時の市長の通訳をやったことがある、脱線する市長の
挨拶に通訳が追いつかず立ち往生した私だった・・・
猛然と、市長に抗議したN新聞社亡Z編集長とK記者、在りし日のふたりの
姿が脳裏から離れない。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
合掌