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思い出

望郷はるかなり 過ぎ去りし日の思い出

人口4~5万余りの港町は繊維不況が押し寄せて工場閉鎖の憂き目
を余儀なくされていた。

隣の市町村から集まっていた女工さんたちは都会を目指して港町から
去って行った、町は斜陽の時代を迎えて寂れていく。

それに代わるのが漁業と農業の果樹経営だったが、天皇杯授賞は蜜柑
後進県から先進県へリーダーシップを発揮する幕開けになって行った。

しかし淋しいことに人口は減少傾向にあり、子供達の地元への就職
傾向は都会へと向かうことになる。

幹線道路の中心に市役所へ右折する交差点がある、交差点手前左側
角にガソリンスタンドが在り、その手前の細い路地を新川に向かって
南進すると小さな寿司屋 A寿司が暖簾を出していた。

「いらっしゃい!」 歳の行った親父さんと女将さんが細々経営して
いた、さほど繁盛している店ではないが経営者の人柄に惚れて固い
固定客がいる寿司屋だった。

市の中心部、港に近い場所に飲み屋が軒を並べている、一杯飲み屋の
屋台、バ-、純喫茶、そして親父さんの店から年季の開けた弟子がB
寿司を開店していた、ここは繁盛していた。

このA寿司に通い始めたのは、私のアパ-トに居ソロウしていたCが
連れて行ってくれてからである、後から判明したのはCが付けを溜めた
まま関西へ発ったと言う事実だった。

この親父さんが偉かった、二度ほど同伴した私に何も不平を言わなかった
ばかりか逆に良くしてくれたことである、さすが女将さんは一度愚痴が出た。

私の男心に火がついて、店の従業員及び懇意なお客と利用することになった。
無口な親父だったが私達の雑談に相好を崩して歓待してくれた。

珍しいことに親父さん夫婦は、たまに早い時間に私の店へ顔を出してくれた、
私の多忙と同業者への付き合いが頻繁になる程に親父さんの店へ足は遠のいた。

港町を後にする頃、私の身にいろんな難問も持ち上がったことで親父さんとの
接点は遠のいて行った。

どういうものか、この頃あの時の親父さん夫婦のことが思い出されてならない、
ご夫婦の愛情の割に私の恩返しはできていなかった、悔いとして思い出が蘇る。

故郷、港町を訪ね親父さん夫婦とその寿司屋の閉店への歴史を探ってみたい。
出来ればお墓を探し出してお参りしたいと考えている。

無口で誠実な人だったが、寡黙にお客さんのお相手をする好々爺だった、
私がこうして歳を重ねる程に、あの時のあの時代の経営者としての矜持がよみ
がえるのである、昭和に生きた職人肌の親父さんだった。

金万能時代、人間としての心意気、作法を弁えた男が少なくなった現代に於いて
あの頃の港町には希有な男達がたくさんいた、あの時代が懐かしい、昭和は遠く
なったものである。

望郷はるかなり 過ぎ去りし日の思い出である。

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