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人生

喪失感とやるせなさ 石原家に関する話

ノーベル生理学・医学賞授賞のマサチューセッツ工科大学生物学部およびがん研究所教授
の利根川進博士が中学2年まで過ごした愛媛県三瓶町にある県立三瓶高校を創設したのが
山下汽船創業者の山下亀三郎氏、山下汽船に勤めたのが石原慎太郎さんのお父さんでした。

その三瓶高校は、私の甥の同級生明徳義塾野球部 の馬淵史郎監督(59)の母校でもある。
そして今回友の葬儀告別式を執り行って頂いた住職の寺が、石原家に所縁のある寺である。
更に私とこの寺はあることで結ばれている、それは胸に納める事でその価値を増す。

弟 裕次郎さんが亡くなった後に出版した本の中で、慎太郎さんが喪失感と言う言葉でその
悲しみを表現しておりましたが、まったくその通りで「逢いたい! 逢いたいのに逢えない
侘しさ、切なさ」

私は、今回の友の死に際して浮かんだのが、「帰らない後悔・やるせなさ」この言葉でした。
何かあると夫婦そろって相談してくれたかけがえのない友だっただけにこの喪失感は切ない。
「やるせなさ」 しばらくは引きづらなくてはなるまいと思っております。

反面、あの苦しみから解放されたのだと、友のために安堵の吐息をついているのも事実です。

「暖かくなったら同級会しようぜ、わしが会場まで連れて行ってやるよ !」 この約束は
果すことが出来なくなりましたが、10名ほどは多忙をさいて葬儀に参列してくれました。
彼も喜んでいるのではと考えることにしています。

Yよ ! 約束は 何処へ 行った ?
これは、もうお互い様、強気の中にやさしさを秘めた男、家族にさえ気配りした良い奴だった。

棺桶に花を差し入れて、眠るがごとく安らかな寝顔に、私は語りかけた、手を添えて・・・
「Sよ! 家族を頼むぞ。」そのように彼の想いが返ってくるようだった。

私とともにこの闘病の日々を見守った仲間にKという友が居る。
葬儀の後の同級生とのミニレスで、学生時代や若い頃の話が出て弾んだ「Yは (亡き友) 同級生や
下級生を殴ったことは有ったか?」私の問いに Kは「ウ-ン」と 記憶をたどっていたが・・・
「同級生をひとりだけ殴ったことが有る」と答えた。

そういうKこそ下級生から恐れられた上級生だったのである、巻き藁で鍛えた拳は下級生を震え
上らせた、「バシッ!」 一言の後に頬に拳が炸裂した、見守る後輩達は恐れをなして震えた。

高校三年間常に一緒に行動を共にしたKでも、Yが人を殴ったのを見たのは一度だけ、ことほど
左様にYは弱い者を殴らず、痛めなかった、だから後輩が羨望の眼差しで見上げたのである。
私がYを、見直して付き合って来たのがこの生き方を知っていたからである、だから少々の悪は
許された。

たとえ厭なことがあったとしても、その屈辱を承知で仲良く出来た、男同士の絆が更に強くなった
ことは言うまでもない。

30代のある時、Yとともに普通課で番を張った友 N が学生時代の私のあだ名をつい口滑らせた、
言った途端に彼は気がついて、血の気が引いた、その時の私のポジションに気がついたのである。
私は素知らぬ振りで冗談を交わした、ほっとしたNが微笑ましくもいじらしかった。

友と言うものの良さがここにある、私は一旦友情が芽生えると、少々の事で壊さない、許される。
ここが私の少しばかりの良さかも知れない、「許すことと許されないこと」これが外国との関係に
なると鮮明に色分けする私が居る、何故なのか ?

外国との関係は、そのことが命取りになる、国が消滅する、だから譲ることも譲れない、国の命運
に妥協は許されない。アイディンティティとはかくも厳しく守らなければならないものなのである。

友の死、石原慎太郎先生、そして私を見守っていただくブログ友達のみなさん、それぞれに想いを
馳せるSなのです、本日多忙更に多忙! 悲しみを癒してくれるありがたい多忙さに感謝です。

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