別ブログのアクセスされたペ-ジに「Kとドス」がアクセスされている。
もう随分年月も経ったのでKを偲んで少し彼の事に触れてみましょう。
本名T・M (通称K) ちょうど高倉健さん全盛の頃で私達の青春時代。
本名はタケシと呼ぶが、当時の健さんにあやかって兄貴分や兄弟分は
健と呼んで一目置いていた。
私が高校に入る少し前までの港町は金ぴかのヤクザの組が堂々と看板を
挙げており、幹部クラスともなれば颯爽と肩に風を切って歩いていた。
横にはハッと振り返るほどの綺麗どころの女性が付き添って歩いていた。
勿論、当時の私などは兄さん達が近づくと道の脇に避けて身をすくめて
いた ( 凄いな!) 畏怖の念と映画の影響で憧れに似た感情を抱いていた。
竹馬の友 健は、中学卒業前大切な実兄が喧嘩のいざこざで刺殺されて荒れ
捲くっていた、
紹介できないほどの沙汰を繰り返した、当時の担任や学校は大変だったと
思う、少年院のお世話にもなり、その時に出会った悪たちと船を下りて
から町を徘徊するようになるのである。
彼は中学卒業と同時に隣町のサバ船(カツオ漁船の一種) に乗船して船乗りに
なるが、入港する町々で喧嘩三昧、ダチの話を聞くと連戦連勝、近隣界隈で
健の噂話は尾びれがついて広まった、腕、体は鋼鉄のように盛り上がっていた。
「健に叩かれたら大ごとぞ!」喧嘩度胸とパンチの凄さは戦う前にして相手を
呑んでいた !?
その頃の故郷の先輩は随分被害を蒙ったものである、後から耳に入ってきたが
先日紹介した私の兄貴分Tちゃんの兄ちゃんには度胸実力ともに叶わなかった。
数年経たずして彼は船を下りて港町を闊歩するようになる、少年院時代の仲間と
グル-プを形成する、カツ上げ、暴力、何でもござれの狼藉が続くことになる。
彼が中学3年の時に唯1人喧嘩両成敗になった、我がK校3年番長Mとは交友が
続いたことで一緒に通学した私や従兄弟は難を逃れることになった。
私は小学1年から6年まで竹組、健も一緒、だから時々彼の家へも遊びに行って
いた、身体の小さい気の弱い私を庇ってくれる義侠心のある男だったのである。
私が空手をやる頃は、兄貴分との経緯が有って彼は妻と女の子供ふたりをつれて
港町を後にして大阪へと向った。
私が店を開店してからは帰郷の度に数名の若い者をつれて店に顔を出してくれた、
金払いは見事のひと言、一度として付けてくれ等、無理を言われた事はない。
さすが苦労しただけはあって情を弁えた男 (侠) になって帰って来た。
私が高学歴の人間より危なかしい男に惹かれるのは彼等の内面の弱さと暖かさを
知るからである。
健の最終章を私は見ることは出来なかった、一時間半の距離なのに、苦労続きの
私に健を尋ねる余裕はなかった。
ただ言えるのは、思うのは、竹馬の友としての絆以外に、彼の見えないところで
空手で男を磨いた私を、健は喜んでくれていた、舎弟たちの言動で彼の胸の内を
知ったのである。
きっと逢いたいと思っていた筈だ、私が彼を想うように、妻子に見捨てられて、
病床の身に去来したものは何だったであろうか ?
健と私の共通点がひとつだけある !
事に臨んで衆を頼まずひとりで相手する、年老いてからは知らないが ?
ブログ Kとドスの一節
「・・・・・! それでもドスを突きつけられたら、怖いぞ が・・・?」
お八幡様の境内の石段での ひとこま 今となっては懐かしい、男はせつない。
本名T・M ( 通称K・健 ) 私の大切な竹馬の友 涙を見せぬ男の散り際が
愛しい。
冥福を祈りたい。
「健 やん! 必ず探し出して逢うからな ! 待っていてくれよ !?」
八月一日午前1時、耳に聞こえる虫の音に 健がいるような そんな気がして。