「Sやん! 」 辛そうな竹馬の友Aの声が携帯の向こうから聴こえて来た、
彼は息子の事で頭を悩ませていた。
彼の息子は、性格はいい子なのだが、人付き合いが下手で、諸事
我慢に欠けるきらいがあった。
以前頼まれて紹介した会社を辛抱できず半年で辞めてしまった、
それも無断欠勤という男としてやってはならない末のことだった。
「Sやんの顔を潰した上に、これ以上甘えてはいけないのだが・・・」
そう言いながらも頼って来る彼Aの弱さと苦悩は理解できた。
その顛末は、
会社の専務と常務から直接連絡が入って、分かっていたのである。
前向きに採用してくれた会社には誠に申し訳ないことをしてしまった。
私は親子から連絡がない事に不満を抱いたが敢えて無視していた。
(よくぞ・・・?)
それから数ヶ月経ってAから電話がかかって来たと云う訳である。
私のように裸一つで社会に出たものと、温室育ちの田舎人間では
覚悟の度合いが違う人にものを頼むと云う事の重大性の認識が異なる。
私の田舎は、比較的恵まれた環境に在った、農業収入が豊かだった、
頼みごと、頼まれごとは日常茶飯事、おまけにありがとうだけで済む
社会・共同体だった。
その間で仲介する立場の私は、大きな世間体の中で生活している、
だから、ひとにものを頼むと云う事はお礼が必要な世界に住んで
いるということでもある。
これを比較しても、物事に対する責任感が違っていた。
Aの息子は気弱さもあって就職活動に消極的だった 、親への負担が
もろに来ていた。
親の甘さに私はキツイ視線を向けていたが、そのまま黙っていた。
再度私に連絡を寄越して来たと云うわけである、 さてどうするか ?
先ず断るべきだと思ったが、Aの苦悩を知るほどに今一度チャンス
を与える事にした。
「・・・社長、私の友達の息子ですが、気だての優しい青年です、
一度、会ってはくれませんか ?」
数社の事業を抱えて日々多忙なB社長に電話をかけた、
「Sさんの知り合いなの ? 寄越しなさいよ !」 色よい返事が
返って来た。
そう云うところで明日 火曜日 午前 時 本社で面接と相なった。
B社長の事業の中に彼に適した職場があることを見当つけていた。
後の結果は、本人次第、
これを見逃せば彼の就職は難しい、人生の分かれ道にもなる。
それに比べて我が家の愚息達は、厳しい親父を持ったことで常に自分達で
人生を切り開いて来た、
親の助けが得られないと云うことは、自力本願だけで歩まなければ
ならないと云うことである。
どちらの親が子供にとって有益なのか ? 答えは出ているだろう !
親は、子供より先に死ぬ、親離れのできない子は、その後に辛い現実を
迎えることになる。
私は、他人のために随分お世話をして来たつもりである、しかし我が子の
為に人にすがることはしなかった、それが男の美学だと思っていた !?
しかし、利用できる者は利用する
現代社会の風潮に、我が子を突き放した不憫を思わないでもない。
良き父親で有り得ただろうか ! 子供の胸の内を推し量っている。
親は何を為すべきか? 私は手助けをしなかった、断腸の思いで突き放す
道を選んだ、その冷徹さが子供の自立には必要なのだと信じていたのである。
だが、しかし・・・ ?
それができる親と できない親、 子育てはむつかしい。