話せばわかる→Non (ノン)
フランス・パリ在住の従兄の次男家族を偲んで・・・
昔日本の偉い人が「話せば分かる」と言った、
しかし、話しても分からないと言い換えよう ?世界のみならず日本国内でも分からない人間が増えている。
我々は宗教の違いに絶望的な断絶感を感じているが、思想の違いにこそ、それがあることを知る。
度々取り上げる国の最高機関国会論戦の攻防を見れば否応無く感じざるを得ない。
まず話が通じない、自分たち以外の意見は聞こうとしない、まず受け入れる心の余裕さえ見当たらない。
それらは、どう説明したら良いのだろう ?
今の学生はどう思うだろうか、我々の時代の者から見れば、考えられない排他的自己主義にしか見えない。
だから宗教に凝り固まる人は友人として迎え入れない、日本を否定する政治色の強すぎる人も敬遠する。
「自己以外皆師」の人間に「自己以外皆敵」人間と、どうして共存出来よう、だから人間同士の「話せば分かる」は「話しても分からない」に私は軌道修正せざるを得ない。
本来は「話せば分かる」世界を願望する私であることに論を待たない。
「遠くしか見ないと足元でつまずくよ!」
「足元だけを見て歩くと行き先間違うよ」
さて、それではどうしょう ?
先日、眼科医院へ恒例の診察に行ったが、私は老眼の身、ゆえに老眼鏡の矯正を時々する。
だから、普通に生活する場合と、新聞、書籍を見る場合と2つのメガネを常に持参しなければならない。
不便だなと笑う人もいるだろうが、いやいや、世の中は良くしたものです、
「慣れ!」
これなんですよ、どちらが無かっても困る事を考えたらメガネの掛け替えなど何の苦にもならない。
このように諦めからの寛容人間になれば良い、一方納得できない人もいる、じゃあ彼らはどうしているのだろう、今度聞いてみましょう。
「話せば分かる」人がいる反面、どうしても「話しても分からない」人もいるのである。
世の中はままならない、民主主義の自由を求める人がいれば、統制社会にシンパシーを感じる人がいる。
貧しければ貧しいほど不満が出る、豊かであればあるほど更に上が欲しくなる、人間ほど勝手な生き物はない。
しかし、アフリカの大草原に放り出されても困る、どう猛な野獣に襲われた時、人間のわがままさに気がつくだろう。
人間の果てしなき欲望が「か弱きもの」の犠牲の上に有ることを。
どうしたら良いのでしょう、教えてアルキメデス !?