小雨降る夜の男歌
古い昔の思い出話しである、農協関係の要職に有った同級生が後輩を連れて私の経営する店へやって来た、普通科の番長格我が母校野球部のモテ男Aである。
「Sよ!」後輩を連れているから少し高みから話しかけて来た、その後に彼の口から高校時代の屈辱のあだ名が飛び出した !
「・・・?」口に出してすぐ彼の顔から血の気が引いた、( しまった!) 彼の動転の意味が当人の私はよく分かった !
私は間髪入れず冗談を返した、彼の心の内を悟ったからである。
後輩たちは当時の私の立ち位置、その港町での私のことはよく知っていたのである、
他市での勤務を終えた彼は卒業後の私を知らなかったが ?後輩から詳しく聞いて分かっていたはずなのに、応対する私が低姿勢だから、つい緩みが出たというわけである。
私は幼少時代からおとなしいその他大勢の生徒だった、ガキ大将連中の格好のいじめられっ子、高校までそのスタンスは変わらなかった。
いじめられる側の悲しさ辛さは自分の体験で骨の髄まで染み混んでいる、
私が人と変わっていたのは、同じ苦しみのいじめられっ子の悲哀が気になる男の子だったと言うことである。
二十歳になった時、松山で空手を習った先輩が故郷に帰って来た、酒癖の悪い先輩で酒席で後輩を恫喝した、「ワシは空手を習っている」口論の節々に自慢した。
私の義憤が行動に走らせた (じゃあワシが空手を習って帰る)その直後、家出をして松山に向かうのである、
土橋に在った日本空手協会「明空館」明星先生の指導を受けることになる。
その後帰郷して、既に道場は無くなっていたが港町で教えて貰う指導者を探す日々が始まった、その後、終生の師になるM先生にたどり着くのである。
青年もいたが多くは高校生、彼らとの稽古の日々が始まる、その中に芦原会館初代館長の初期の弟子たちが数名いた。
私の見て見ぬ振りのできない性格がそうさせたのか、喧嘩の仲裁に呼ばれる機会が増えて行く、全く損な役割だった、その時代、それまでとは全く違った実戦に巻き込まれていく。
稽古空手から無敵勝流の実戦空手に否応なく引き釣りこまれる !その頃の港町は組事務所もなく町そのものが荒んでいた。
先般のAとは、彼が病気で亡くなるまで「貴様と俺!」の友情が続いた、最後の見舞は、彼の去りゆく身に臨んだ覚悟の想いが滲んでいた、病院を辞退する私は辛かった。
彼の妹が私の身内に嫁いでいる、人の縁の不思議、Aの穏やかな表情が忘れられない、命の瀬戸際に臨んだ男の美学、泣かされましたね。
「Aよ! つい長生きしてしまったよ ! 又イッパイやろうな待っててや !」
尚、この屈辱のあだ名をつけてくれた張本人の番長は、 何かあると私を頼って来た、そして良き友情を育んでゆく、 彼の死出の旅路を私は見送ることになる、 合掌。
小雨降る土曜日、今夜あたりは、男の演歌に耳を傾けたい !?
男の酒 秋岡秀治
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