陽の当たる坂道 友の愛人
愛人と言う名の女性がいる、私はどれほどの人と出会ったであろうか、その中には日陰の身を恥じず1人の男に尽くす女性がいた。
たとえ日陰の身であっても、長い年月共にいれば、それは二人だけにしかわからない情愛。
芸能界で悲しい物語がマスコミという手合のスクープで世に晒される、妻は悲劇の主人公、愛人は幸せな家庭を破壊する悪い女、これがいつの頃か定説になった。
一方的に責められる日陰の身の不幸、陰に寄り添う人がいても良いではないか、それが私の意見でもある。
芸能マスコミは勝手に暴き立てる、そこには人としての情が欠落している。
不幸の坂道を転がる人がいる、そこをこれでもかと暴き立てる執拗さ、そんな人たちをたくさん見てきた人間からすると世間と言うものの身勝手さに辟易する。
多角的に見ることはできないものか、人間感情だもの、いろんな形があっても良いと思うが、こんな考えは不道徳でしょうか ?
想い出に残る友人がいる、もう亡くなって10年になるだろうか、彼に愛人がいた事を私は知らなかった、家庭が早く破綻したことは聞いていたが、愛人の存在は知らなかった。
ある時偶然知人女性からその存在を聞かされたのである、それも彼女の身近にいると言う、私は逢いたいと思った、友の晩年を知りたいと思ったのである。
男として羨ましいほどヤンチャ人生を突っ走った男である、ずいぶん人にも迷惑かけた、小学校1年からの同級生、家にもよく遊びに行った、だから大人になっても子供時代の感情がそのまま残った友人同士だったのである。
私には優しい男だった、痛めるどころか弱い私を常にかばってくれた、三つ子の魂百までも、それを地でゆく男だった。
最後は孤独な闘病生活だとばかり思っていた、家族に捨てられ寂しい最後だったのではと胸を痛めていたが、愛人がいたとなれば彼の最後を看取ってくれたと言うことになる、その日々を私は知りたいと思った。
そうであれば「私は彼女にお礼を言いたい。」
その女性は私の手の届く小さな町に住んでいる、それを伝えてくれた女性の側で日々の糧を得ているという、サプライズがあるとすれば、私の記憶の中ですれ違った女性だったかもしれない ?
人生にもしもがあれば、それは嬉しい過去帰り ?
亡き友が、「頼むよ !」と草葉の陰から呟いているような気がする、強気の裏の寂しがり屋、あのヤンチャな男が 「頼むな!」 と !
家族から見放された男を支えてくれた女性だもの、「逢いたい !」
会うことができるなら・・・
「彼を看取ってくれてありがとう!」 「ありがとう !」心から伝えたい。
「Sよ ! 頼むな、一度でいいから逢ってやってくれ !」
剛毅な男があの世から目をショボつかせて ?
私に女性の存在を知らせてくれたのは、私と彼の共通の先輩の娘さん、何かの因縁だなと思っている。
愛人、日陰の女、そうなら尚更、陽の当たる坂道をプレゼントしてあげたい !?
「 T よ !!! 」
人生色々、男も色々、女も色々・・・と、昔そんな歌がありました。
理屈だけで眺めず、人の情を通して世間を見ますと、貴方の意見は、日本人の心でもあります。貴方は不幸な人間でも、筋を通した人には情をかけずにおれない人ですから、気持ちがわかります。
亡くなった幼馴染みの友のためにも、寄り添ってきた人に会われ、お礼を言われたらどうでしょう。そうなれば、三人の気持ちが一つになり、貴方も安堵されることでしょう。
onecat01さん、
コメントありがとうございます、
妻ある男性と恋に落ちて日陰に甘んじた女性(愛人、昔でいうお妾さん)達はどんな思いで男性の葬儀告別式を見送るのでしょう、正妻とその子供たちが喪主となり、愛人の参列はほとんど認められないようです、その胸の内を推し量ると切ないですね。
表に出ない二人の女性の心の葛藤は、どんなものでしょう ?
私の好きな女性演歌歌手がこんな悲しみの舞台を迎えました、二人で生活していたとはいえれっきとした本妻がいました、男性が自死でしたのでその風当たりはキツかったようです。
私の店でもそんな切ない立場の女性がいましたし顧客の中にもいましたね、情の有る良い人が多かったですよ。
あなたのコメントに勇気をもらって、コロナが落ち着きましたら友の愛した女性をお訪ねしたいと思います。
心を込めて「ありがとうございました。」