彼は幾多の志士を輩出した元雄藩に居を構えている、あの幕末の騒乱に命を懸けて疾走した志士達を多く育んだ土地。
そこに思い出全てを胸に収めて明日を見つめている男がいる、彼にある依頼が届いた。
私達の母校真穴中が74年間の歴史に幕を下ろしてこの3月閉校の道を選んだ、生徒数の減少に伴う方針だった。
彼への依頼は、卒業生9名の切り絵による似顔絵制作の依頼だった。
同級生たちの進言に学校側の要請もあって彼は卒業生9名の切り絵の似顔絵製作を受諾した。
諸般の事情で当初固辞したのだが、私の強い進言で彼は要請を承諾した。
昨日、その関係者の祖父祖母に当たる私の同級生夫妻と松山在住組4名は、あるミニレスで落ち合った、2時間半、楽しい語らいは続いた。
八幡浜市立真穴中学校閉校記念誌
「かぶしま」七十四年の軌跡
完成を待って届けてくれたのである、タブレットに写る故郷、顔なじみ達の校歌合唱の動画は、母校への別れとともに涙腺を緩めさせられた。
追憶の中に受諾するまでは彼の葛藤が有った、要請当初相談を受けた私は躊躇する彼を説得鼓舞して受諾を進めた。
彼の男気に訴えたことは言うまでもない、彼は決断した、そして今回、 閉校記念誌を待って切り絵も完成し9名の卒業生に届けられたのである。
その切り絵は見事に出来上がっていた、私の感慨も深いものがある ( とうとうやり遂げたな ! ご苦労様 !)
その夜の昨夜、長い述懐を込めた電話が交わされた、
彼はサバキの円心空手を世界へ飛躍発展させる円心会館二宮城光館長の八幡浜高校時代の同級生。
しかし、1年生の時点で3年生の番長グループから理不尽な集団リンチを連日受けながら耐え続けた根性の持ち主でもある。
「よく我慢した ! よくぞ耐えた ! 」
彼を集団で殴りまくった先輩たちは、その後事あるたびに私の店へ足を運んだ、
従順で人の好い男たち、まさか彼に対して狼藉を働いていたとは、しかし私との関係を知った彼らもまた後悔にさいなまれていたことを内の一人が告白して詫びた、私は彼に伝えることはしなかった、男ならこれも経験、私の持論である。
私との関係を番長達に言えば彼等の暴行は止んだはずなのに彼はそれをしなかった、
しかし私が問うのは、この今なのである、振り返って思うのだが当時の学校側教師と他の上級生達がそこを通りかかるのに制止できなかった、助けの手を打たなかった事なかれの非情に問題がある。
その彼は3年生になると堂々の番長グループの一員として花を咲かせる、彼の周りに後輩を痛める卑怯者はいなかった、たくさんの同級生、後輩から彼は慕われる男になるのである。
彼は私が以前認めた、M君とその仲間達に紹介する一員である。
陰気と陽気 ! ここにも男の器量がモノを言う !男なら後輩を虐める暇があれば、無茶な先輩に向かって行け !
円心会館の城光館長は3年生時点で当時の校内で叶う者などない実力者、それなのに謙虚な姿勢は見事の一言、だから同級生は勿論同窓生達が城光師範を称えるのである。
光陰矢の如し、母校閉校の侘しさよ ! されど卒業生ここにあり !
「いつか一杯やろうぜ ! 」この私こそ、番長たちに殴られはしなかったが、いわば弱いいじめられっ子、無言で空手に励んだことで後年、現在に至るも彼ら番長たちは私を頼ってくるようになったのである。
私は、彼に伝えた、いつかその憎い彼らの力量が見えるようになる、その時、復讐心は恩讐の彼方に消えていく、私の仲間たちはそうしてイジメられた過去から自立した。
みかんと座敷びなの里は、コロナ禍にめげず、静かな凪を見せている、記念誌に見る「かぶしま」が「みんな負けるなよ ! 辛い時はふるさとを思い出せ ! 」
真穴中学校校歌
♪ 佐田の長崎差し伸べて
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