ついてくるかい
人付き合いの広いということは、問題も山積みに抱えていると言うことに繋がる、元気の出る若い壮年期なら苦にならないが体力の落ち始めた老年期に入ると結構しんどいものである。
人様の苦悩にタッチすると言うことは責任感の強弱にもよるが体力より脳の負担がキツイものである、特に自覚することは、ある(この) 時期になるとヒシヒシと感じ始めた事である。
人のために苦労苦にならずの私だったが日々の移ろいの中でそうも言えなくなった、親しいクライアント家族が盆休みを利用して沖縄旅行へ行かれた、「何日も良い天気に恵まれて暖かかったよ !」 笑顔で報告された。
(多分私には、ゆっくりとした一家団欒の機会は来ないだろうな!) それが自覚する我が運命だろう…。
立場の違い、それは学歴につながる特権で有り、人間関係に恵まれた人の特典と言う事だろう、もう今世では叶わぬ夢、掴み損なった運命だと私は当に諦めている、叶わぬ夢か幻か ?
ここで白状すると、今の間際、私が眺めている運命、宿命への実験がある、生死を冷静に分析して我が身を見つめている、だから死は怖くない、泰然と臨んでいる。
ただしかし、無駄な人間たちへしちゃならない手助けをして、そうした為に、家族へ苦労かけてしまったことの後悔だけが身を責めている、これだけを解決すれば私は大往生するだろう、先に逝った愛犬が仏壇で待っている、朝晩対話を交わしている。
17歳の誕生を過ぎたココアの道行きが迫って来た、その時は私と共の旅路と天国を共にする同居生活が始まる、兄弟に等しい曹洞宗の住職に墓への同居の有無も確認済みである。
一部の政治家、官僚だろうが古今の政治の茶番劇も儚き幕引きの序章に過ぎない、
人間の一瞬の人生、そのわずかな刹那にあなた達は何を思う ! 儚いね !
私は壮大な夢を見ている、本当の物語はこれからなのですよ、
楽観主義も時には荷が重くなるが「成るように成るさ、ついてくるかい 押忍 !」
そう・・・
ついてくるかい !?