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雑談

フットワーク あの時代は

あの時代は、良かったね!
懸案事項が無事終わり久しぶりに憂さを忘れてノンビリした、
のどかに陽気を見せる青空を眺め、追憶に瞼を閉じた。

フットワーク Mとの双璧、無二の親友だったYも昨年3月、
Mの近況を思い偲びながら永遠の旅路に付いた、

その同じ3月は高校二年の修学旅行で思いもよらぬ出来事で
離反する事になったJも離れた街で息を引き取っていた。

遠く離れた大阪で不自由な身体を妻に支えられてリハビリー
に励むMへ、Yからの血の滲む想いを託された私だったが !

肉親の兄たちさえも彼の消息は把握できず、Mの音信は寒空の
中に途絶えた。

Yと家族の意志を私は受け継ぐ事になった、残されたYの家族
の「お父さんの気持ちをMさんに伝えたい、誤解を解いて
仏前に報告したい。」

その切なる願いを、私は男として全うしたい、
「必ず叶えてやるからな !」

昭和が輝いていた四国の田舎は港町、その海沿いに我が母校
K高はヒマラヤ杉に見守られて佇んでいる、

手に負えなかった悪童2人、上に向かっても下には情を掛けた
花の番長合わせて二人だった。

Yの病気を伝えた時、Yを見送る葬儀告別式に、2人とつるんで
3番手を張った、地元に残ったKは、溢れる涙を隠さなかった。

木造校舎が壊れるのじゃないかと畏怖される程、空手で鍛えた
拳で校舎の柱を叩いた勇者も友との別れには弱かった。

フットワーク Mよ!
> Y校花の番長グループなのに刃物 ?

仮にもラグビー 柔道でY高に鳴り響く3年の番長たち ?
他校の二年生3人に向かって刃物かよ ?

まあ! あくまでも脅しに使う道具だろうが今考えると可愛い
ものである !

当時の時代背景は現代の荒んだイジメには程遠い、良き時代
だったということでもある。

何故? お前さんは、そんな番長たちと親しいんだい ?
疑問をお持ちだろうから少し説明することに致します。

高校3年間、私は目立たないおとなしい学生でした、小柄な
非力ほど悲しく損をすることはない、

特に理不尽な悪童にはイジメの対象になる、同郷の一級上に
顔の知れた先輩と同級生Mが居たことで私はイジメから逃れた。

その非力な矛盾に発奮して、私を空手の道に走らせた、
そこで生まれた先輩後輩との絆が 「強きを挫き弱気を助ける」
方向に向かわせたのである。

男は、粋がらなくても、自然に人の噂に上がるようになる !
泰然と悪に向かうことで、相手の心を動かせるようになる ?

Sは、〇〇ぞ !
実は大したことは無いのだが無欲が相手の戦意を無くしただけ、

周囲が勝手に忖度して礼を尽くしてくれるようになった、
奢らず怒らず控え目に、何かあると周囲から寄って来るように
なったのです。

そう云う面では「空手に先手なし」は、 名言だと思います。
押忍

フットワーク あの時代は” に3件のコメントがあります

  1.  杉の子さん。

     あの時代は、良かったね!・・・・、そう言って、貴方は青春時代の思い出を綴っておられます。
    「いろんなことが、あったねえ。」・・・・、年老いた母は、口癖のように言い話し終えました。満州から引き揚げてきたこと、娘時代のこと、小学生だった頃の話、亡くなった父が招集された日の話、何度も聞いた話でしたが、毎日うなづいて聞きました。
    何度聞かされても、退屈でなく、帰って懐かしい昔話でした。母の話にうなづきつつ、私も回想の仲間入りをいたしました。今回発見しましたのは、時折母の記憶が途絶え、兄弟や親戚の者の名前が分からなくなることでした。翌日にはちゃんと話すので、これが老いることかと、寂しさもありました。「時々、誰が誰か分からんようになる。」母は笑って言いますが、暗く思い詰めないところに、安堵したしました。足が細くなり、腰が曲がり、何をするにもゆっくりゆっくりしかできませんが、それでもまだ自分で自分のことはやっていました。

     奥さんに先立たれた、小学校時代の友を、1日だけ老人ホームへ訪ねました。車椅子でしか動けない彼は、介護なしで暮らせないのです。「着替えと洗面道具だけ持って、」「旅から旅の生活や。」「フーテンの寅さんになってしもうた。」老人ホームの空きがないため、2週間おきに自宅とホームの旅をしている友は、そう言って笑いました。小学校から大学まで、ずっと同じでしたから、尽きない話が弾みました。「生きてたら、また会おうや。」エレベーターの前で、手を振って別れました。

     これが私の旅でした。杉の子さんみたいな、格好良さはありませんでしたが、それなりに心に残る数日でした。昨日は疲れて、風呂にも入らずベッドに転がってしまいました。今晩風呂に入り、モズクを肴に一杯やりましたら、我が家へ戻った実感が戻るのだと思います。

     当たり前のことですが、どこへ行きましても、人はそれぞれ、ちゃんと自分の荷物を背に乗せて、毎日生きておりました。くよくよしない人間は、同じ人生を生きても、2倍も3倍も楽しく生きていると、母や友の笑顔に教えられました。杉の子さんは弱音を吐かないし、コスモスさんも明るいし、なんとか自分もそんな老人にならなくてはと励まされます。

     長いご挨拶となりましたが、戻ってまいりましたので、杉の子さん、コスモスさん、どうかよろしくお願いいたします。

  2. 杉の子さん。こんばんわ。
    onecae01さん。お帰りなさい。

    ひょっとして?と、はんだま(水前寺菜)の胡麻和えを摘みにして島酒を飲みながら参りましたら、
    onecat01さんのご報告が目に留まりました。お帰りをお待ちしておりました。
    お母さまがお元気なご様子にとても安心し、嬉しく思いました。

    90歳半ばのお母さまが、記憶が途切れるのは当たり前のように思えます。何故ならコスモスの方が
    もっと酷い状態なのではないかと思えるのです。

    過日、宮崎の一番上の姉から電話があり、宮崎へ来て欲しいという要望でした。けれども、もう
    現在のコスモスは姉の介護は無理のようです。
    両親の最後を看取らせて貰い、出来ることならば二人の姉の最後も、と願っておりましたが、現在
    姉の願いに応えられないコスモスです。

    今、コスモスの周りには筋萎縮症、痴呆、アルツハイマー、等々の病に伏す方ばかりで、一人暮らしの
    老人が多く、そのような方々が孤独の内に亡くなって行くのを、どうしたら、最後をより豊かに暮らして
    貰えるのだろう・・・。そのような事柄に直面しております。
    コスモスの夢が現実になるようにと、努力努力です。
    それには、健康第一、そして、めげない明るさ・・・でしょうか。
    今年、夫の7年忌が終わりましたら、多分アパート暮らしになるのかも知れません。
    築80年のトタン屋ですが、獰猛な蟻んこにやられてしまいました。
    夫との思い出多き家なのですが、立て直しをする時が来たようです。

    杉の子さんのようにエネルギーが充満しておられるような身体と、フルネームで記憶されておられるonecat01さん
    の若い頭脳、お二人にはとても叶いませんが、前向きに進んで行こうと思っております。

    ただ今69歳の・・・を整理しているのですが、数年前の写真でさえ、「あの時は若かった!」なんて思える程
    加速度的に歳老いて行くのですね。
    でも、精神年齢は少女時代と少しも変わらず・・・でお目出度いコスモスです。

    今日は、お帰りなさい、のご挨拶だけと思いましたのに、ついお喋りをしてしまいました。
    「ねこ庭」のたびちゃんは元気でしょうか?
    お疲れが取れましたら、ブログへお帰りになられますよう、お待ちしております。

    杉の子さんの「待ち人」との再会が果たせますよう、お祈りしております。

  3. onecae01さん、
    お帰りを首を長くして待っておりました、お母さんの年齢を考えると、もしかして ?
    いやいや大丈夫だよと交互に考えを巡らせていましたがコメントを頂いてホッとしています。

    お疲れだったでしょう、それにしてもお母さんとの下りは、自分の母の在りし日を思い出して
    胸にぐっと来るものがあります、男は母親に弱いですから。

    この歳になりますと、同級生達はどこか病気を抱えて病院通いばかりです、私はもっぱら
    ハッパかけの役目です、元気でいて心の拠り所になってやらなければと自分を鼓舞しています。

    コスモスさん、
    たとえ実年齢がどうであれ私とonecae01さんにとってコスモスさんは若い妹ですよ、その心から
    発せられる想いは素晴らしい、このブログを又はコメントを見る人にも生きる為の刺激になって
    いると思います。

    お互い家族と云う宝物を持っています、可笑しなものでどんなに苦労してきた人生であっても
    こうして過ぎ去ってみると、歳を取ってみると、不思議ですね、苦しい時よりも楽しい思い出が
    蘇えるのは何故でしょうね、物事を楽天的に取ると苦労と云う字を神様が消して行くのでしょうか ?

    だから、がんばらなくっちゃね ! 車座になって酒を酌み交わす逢える日を夢見て。

    今夜は、3人で 乾杯 !? 杉の子酒場 開けてますよ !いっそうの事 貸切で行きましょうか。

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