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友情

先輩の うしろ姿

幸せと不幸が交互にやって来る、

人間は人付き合いもなく我が道を行けたら言うことはない、しかしそれはいつまでも続くものではない。

私の経験から見ても独立独歩の人生を歩んだ人の晩年は侘しい人の方が多い。

私のようにたくさんの人とマジ合うと、それだけ相談事が増える、簡単な事から重大な揉め事まで多士済々である、その気苦労は並大抵ではない。

私の生まれた村は、一つの運命共同体、何事も無償での奉仕が基本、だから街へ出た私の立場など理解できる筈もない、「ありがとう!助かったよ!」これで終わり、これが男も女も同じなのである。 

私の一つ歳上に親戚づきあいの先輩がいた、彼は大臣秘書を務めた後、妻の選挙区から県会議員に出馬して当選し、後年は県会議長を務めたが惜しまれながら若くして亡くなった。

葬儀告別式は私の自宅の少し上に在る、実家と同じ臨済宗のお寺で執り行われたが参列者は数千メートルに渡って連なった、見事なお別れだった。

先輩へは沢山の相談事が寄せられて、ある時私に語ったのは「県会議員でワシほど就職を頼まれる議員はいない!」と言うものだった。

運命共同体の田舎人間に彼の苦労に気を使う者はない、頼んで当たり前、その苦労が分かるのは、苦労して貧乏真っ最中の私だけだっただろう。

頼む側は気安く頼んでくるが、頼まれる先輩や私は自前で世話になる人への手土産を準備した、我々は愚痴も言わず黙々とやって来たのである。

そんな先輩や親兄弟姉妹と小さな畦道を挟んで隣り合わせに数年間共にした私達である。

先輩の両親から殊の外大事にされた私は、家出して先輩の家での下宿をお願いして、私の精神の基礎になる空手修行に没頭できることになった。

彼は、彼の両親から信頼受けた私を大事にしてくれた、筋目筋目の言動に私への愛を貫いてくれた、

沢山の人に助けられ、議長にまで到達した彼は、特に我々の故郷、みかんと座敷びなの里「真穴」と「大島」をこよなく愛した男でもあった。

「柳澤正三」

一つ歳上の兄貴分、彼の苦闘の歴史に心身を守って寄り添ってくれたのが松山商科大学柔道部である。

家族親族、故郷をこよなく愛し県民の福祉に寄与した男は先に飛び立っていった、次男と親兄弟姉妹の元へ駆け上った。

人の為に尽くすと言うことは、自分を犠牲にする覚悟が必要になる、彼は黙々とそれをこなした、特に県内企業で彼が手塩にかけた会社員は多数に至る、私たちの希望の星でも有った。

人に尽くすと言うことは家庭を犠牲にすることでもある、私は今でも先輩の後ろ姿を追っている。

「しょうぞうくん !  その内、酒を下げて行くけんの! 待っててくれよ   !」

青空が眩しい          !?

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