お遍路さん、我が追憶の砂の器
生活保障等考えられない戦後の混乱期は国民一様に貧乏を余儀なくされた、我々が学校に上がる頃ようやく学校給食が始まった、それでも農業兼漁業を生業の海辺の村は恵まれた方だったかもしれない。
芋と麦を主食に魚類は村に数軒あった四つ張り網で補うことが出来た、野菜はそれぞれの家で栽培していた、都会の人の苦労を考えると恵まれた環境だったと思う。
その頃、みすぼらしい身なりのお遍路さんが道路沿いの家々を回って食べ物を恵んでもらっていた、今になって見ると銭金はほとんどなく各家庭の残り物だったのではないかと思う。
それはみすぼらしい身なりだった、私の記憶では数人のお遍路さんの顔が思い浮かぶ、当時の田舎では「へんど、おへんど」の蔑称で呼ばれていた。
その中で、記憶に残る忘れられない母と男の子のお遍路さんがいた。
男のお遍路さんが殆どだった当時、気の触れた、やや凶暴な中年の女遍路さんが5~6歳ぐらいの男の子を連れて村々を回っていた、
何も分からない村の子供達がその異様を恐れながらも、つい失礼な言葉を吐くと我が子をかばう母性本能か異常な反応を示して叫声をあげた、それを恐れた子供達は以降出会っても関わらぬように避けて通った。
その時の男の子は、黙って村の子供達を睨むだけだった、母親を諭すでなく、村の子供達に刃向かうでなく只睨んでいた。
その後、映画とテレビドラマで松本清張作「砂の器」を見る機会があったが、ドラマーの進行とともに、当時の我が故郷の情景が蘇って来て、あの母と子のお遍路さんが浮かんで来た。
我々の村と人々の視野から消えた、母と子のお遍路さんは、その後どんな人生を迎えたのであろうか、歳の順からすると母を見送る時を迎えた男の子はどんな思いで母の死を見送り、波乱の中の孤独に耐えたのであろうか。
少年から青年そして壮年、彼の人生の波乱が気になるところである、家庭はできたのか ? 子供はどうなのか ?
人の世の人の道の基本が気になる人の一生である、人より秀でる必要はない、ただ、地道に幸せを掴んで欲しい人である、仮にも事件に巻き込まれない人生であって欲しい、村の子供達から心ない言葉を受けた彼の生涯が気にかかる。
私よりも数歳年下の男の子である、私の人生と平行線で時代を数えた人の筈である、砂の器は私の過去に起きた物語である。
脆くも崩れる幸せという宝物、両の手で必死に庇うのに尚落ちる砂の器 !
あの子供の姿が、あなたや私の子供達の未来でないことを祈ります。
四国は八十八ケ所お遍路さんの巡る國、私の友はへんろ小屋プロジェクトに生涯をかける誠の人、静の武人でもある !?