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友情

男涙の天王寺

男涙の天王寺

戦後の寂れた海辺の村で私は育った、日本中が一様に貧困に喘いでいた時代である、村の収入といえば記憶にないが蚕の成育、小さな村に似合った小さな工場から得る女性たちの日当が家計を支えていた。

男達は昼間は狭い段々畑で桑を栽培していたが、時代の流れで芋と麦を栽培するようになり、大部分は農協へ出荷して残りを家族の食事に当てていた、左程貧富の差がなかったことが差別から離れた環境だったと言えよう。

大家族なのに海に面した我が家には隣近所や村のおなご衆が顔を覗かせていた、千客万来の趣だった、素朴な人達が遊びがてら愚痴を言いに集まったのである。

親父とお袋が偉かったし、忘れてならないのは「バァバ」の鉄火肌の気っ風に女だけでなく男達が集まった、バァバの産まれたところが土佐は高知県境の町津島町、進取に富んだ寒村がその源を為していた。

私はこのバァバから男の生き様を学んだような気がしてならない、強気を挫き! 弱い者を助ける男の花道、同級生との間では3月生まれという事もあって常に控えていたが後輩との関係ではおとなしい兄貴分として振る舞った。  

狭い田舎は小字で仕切られていたが1つ下に村で秀でた裕福な家のジ~ンがいた、後年Y高で肩を怒らせた番長グループの一員となるが結婚適齢期になって身体を壊し早死にしてしまった。

その又下に現在も健在のKが勤めを終えて♪蜜柑農家を営んでいる。

数年前、我が家の相続問題で肉親の亀裂が生じ、ある噂を流された事がある。

若い頃の私たちの関係は、恩を着せるものではなく自然体の付き合いだったが、私の相談に応じた彼の口から思わぬ言葉が出るとは  ?

「Sやんには子供の頃から仲良くしてもらった、忘れていないよ ! 今度恩返しするのはワシの番だよ !」

朴訥な彼の口からそのような言葉が出るとは、一瞬胸に込み上げるものがあった。

彼の父は地元の遠洋漁業の漁船に乗る船乗りだったが海難事故で妻と男の子3人を残して亡くなった。

家族の哀しみと貧乏姿は小さな村の人々の涙腺を緩めて泣かせた、長男の彼の母を想う強い心は言葉少ない芯のある男にさせて行った。

私の元に同級生の従兄弟、そしてKを含めて父を亡くした後輩が

3人常に4人が遊びにやって来た、男の友情の誕生である、その従兄弟の父親も私達が小学一年の時に病で亡くなっていたのである。

私以外は皆父がいなかった、不思議な因縁だと思うようになるのはずっと歳を数えてからである、その他にも後年都会へ就職して出て行く後輩の何人かも父親を早く亡くしていた。

私の交友録に占める幼年時に父を失った友がいかに多かったか改めて気がついた次第である。

その彼らとの友情はいまだに続いている、都会で苦労したであろうに、私の身を案じて便りを寄越してくれる。

父のいない家庭、仕事で家を留守がちな母親の苦労姿を眺めて育った男達、私の自慢の竹馬の友である。

無口な男達が、あの寂しかった幼年期の私との友情を大切に胸に秘めている、少しでも苦労に耐える力になったのならば、これ以上の喜びはない。

これは日本人だからの特性だと私は信じている、出会って良かった   !

コロナが収束したら、彼ら4人の住む大好きな大阪へ逢いに行きたい。

この大阪は、「あの娘恋しい東京よ !」と涙を流した私を男達と一緒に励ましてくれた街である。

ありがとう 男涙の天王寺   !?

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