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友情

悲しみは雲の彼方に

悲しみは雲の彼方に

15歳の春、私たちは巡り合った、約50名の学友の誕生、席順は私の前がK・U、後ろがS・O、共にスポーツマンの2人だった。

バスケットのK、柔道のS、私だけが無粋な学生だった、ヒマラヤ杉が眩しかった、そして頼もしく感じて行く。

自転車通学片道2時間半の所要時間は部活には無理だった。

その町には珍しい空手道場があった、小柄で非力な私は習いたかったが、通学時間の関係で断念した。

紡績会社の社員に偉い指導者が居たのである、糸東流  谷派 修交会、将来私の師匠になる舛田先生が在籍した道場だった、歳月を越えて願いは実現することになる。

私の同級生が道場へ見学に行ってその様子を話してくれた、目の前に座った先生が僕の頭上を飛び越えて蹴りを入れた、そして圧巻は五寸釘を手の指に挟んで分厚い板に打ち込んだ。

興奮冷めやらぬ面持ちで話してくれた。

この見学の様子が私の心に響く事になる、20歳での空手との正式な出会いに結びつくのである。

農業高校のため2人は家業の果樹栽培に従事して行く、地元の人望を集めて指導者の道へと歩を進めていく事になる。

私が若干25歳で純喫茶、一年後スナックく喫茶を経営すると陰になり日向になって支えてくれた、同級生にして頼もしい後援者でもあったのである。

昨日の昼前、果樹栽培の柑橘どころでも特に大規模農家の女性MちゃんがKの死亡を伝えてくれた、先般、果樹 甘平を送ってくれたばかりだった、闘病にも弱音を吐かず耐えた男だった。

流れる涙を私は黙って為すがままにしていた、夜、もう1人のSへ電話して私は声を震わせた、珍しい事である。

KちゃんとOは、特に自慢の同級生、何でも相談のできる男たちだった、私の身を案じ、商売の盛衰を心配してくれて裏でそっと見守ってくれた戦友だった、巨星落つ、その感深しである。

「Kちゃん!  良く頑張った、辛い治療に良く耐えた!もう頑張らなくてもいいよ! ゆっくりお休み   !」

コロナ禍の影響で見舞いもできなかった、寂しい闘病だったであろう、

「もう良いんだょ、君が産まれて育った家でゆっくりお休み !」

金山出石寺は、夏に向かって装いを強めて行く、みかんの収穫を控えて農作業に拍車がかかる、

八幡浜市日土町、彼   K・U 生誕の地である。

Kちゃん !   ありがとう   !?

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