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雑談

野山を駆けるワンパクども あの日の 君よ

野山を駆けるワンパクども あの日の 君

戦後間もない田舎は、日本全国がそうであったように
貧しさの中に復興の槌音を響かせていた。

子供達は常にお腹を空かせて目をギョロつかせていた、
しかし、都会や街中と違って自作の芋麦を栽培していた
だけまだマシだった。

空腹からの餓死は有り得なかったからである、それでも
村全体が貧しかった。

夕方になると私の住む小字の鎮守の杜 「住吉神社」境内に
小学生たちは集まった、

パッチん、けんけん、陣取り、八の字、ビー玉、お馴染みの
チャンバラ、東映映画の影響は凄かった、

勿論大相撲の影響で、相撲は一年中場所と言うところである。

家の親父のひいき力士は千代の山、本家の網元をしている父の
兄が(伯父)横綱千代の山のれっきとした後援会に名前を連ねて
いた。

特筆すべきは、横綱前田山が隣町の出身と来ている、本家と
双璧の網元の奥さんが横綱の幼馴染、相撲に熱が入る筈だよ。

子供達は暗くなるまで遊びまわった、早い日中でも有れば
隣の小字へ繰り出した、高台に在る金比羅様、そこで学校は
一緒だが、行動は別の生活圏の隔たった子供の諍いが起こる。

異邦人、別の世界との融合である、この経験は有益だった、
将来起こり得る他人との混じり合いを幼少にして経験する、
他人との付き合いは、どう言うモノか自然に身について行く。

当時は、芋麦主体の百姓だったが、徐々に田畑を開墾して果樹
みかん栽培に切り替えていく、高収入を得て天皇杯に輝くのは
もっと、後年になってからである。

私の家は海沿いに在って、百姓の傍、イリコ炒りを兼ねていた、
四つ張りと言う漁法で沖合から取って来たイワシ類を熱湯で
茹でてイリコと言う、乾燥させて乾物に仕上げるのである。

海岸沿いの道端にスダレを地面に置いたようなモノに茹でたイワシ
( ホータレ ) を干す、その中には小さなタコやイカが混じっていた、

悪童たちは、登校の道すがら人目を気にしながらもつまみ食いを
したものである。

高校に進学すると、そのつまみ食いはスケールの大きな泥棒に
発展する、ハラハラしながら許されたのはちょいと道にはみ出た
みかんの実を一つ二つ取って食べる、愛嬌の範囲だったが、

豪の者は、杉・桧の山を広く所有する金持ちの坊ちゃんだった、
友達の農耕用の三輪車を借りて我が家の山から木を切り出して
製材所に運んで金にした。

そのあぶく銭で友達に散財、大したもんだと他の友は驚嘆した、
それが高校生である、昭和も三十年代初期の頃、活気があって
復興邁進の戦後の日本の断面だった。

「おおい! 野郎ども! 野山を駆けるわんぱくども、君よ ?」

野山を駆けるワンパクども あの日の 君よ” に2件のコメントがあります

  1. 杉の子さん。

    懐かしい一章でした。そっくり同じ経験をしております。きっと日本中が、そうだったのですね。小さなたこやイカの混じったホータレなど、今も記憶にあります。ただホータレとは言っていませんでした。
    相撲は子供の遊びの人気一番でした。何も道具が入らず、地面に縁を書けば良いのですから、みんな熱くなっていましたね。それでも私はあまり、他の町の子供と喧嘩はしませんでした。弱虫でしたから、そんな場所に近寄れませんでした。

     遠い日の思い出ですね。

  2. onecat01さん、
    ご返事が遅くなりました、前後してしまいましたお詫びいたします。
    都会で育った人よりも田舎育ちは情緒があっていいものです、それと人情ですね。

    人情紙風船、都会で育たなかったことが、思い出に満ちた人生を歩むことが出来ました。
    タコ、イカは分かるとしてもホ-タレを知っているとは驚きでした。

    喧嘩の出来ない弱虫、そして泣き虫小僧、それが小さな頃の私でした、子供の頃は
    体が小さいだけで苛められたものです。

    しかし、人生は良くしたものですね、空手をやるようになってからは、背の高いのは
    鴨でしたよ! 「この野郎、図に乗りやかって!」 フルコンと違って伝統流派は、
    懐に飛び込めば突きが入りましたからね。楽しい思い出です。

    あなたには元気を貰います、感謝です。

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