松山全日空ホテル ティ-ラウンジは多数の旅行客で賑わっていた、
午後一時半 窓辺の陽光が射すひと際ゆったりとした席が私達の
ために用意されていた。
私の目当ての客は50年以上に喃々とする空手の盟友であり、戦友の
友とその家族である、総勢7名がS遅しと待っていたのである。
待ち合わせ場所を間違えて東京第一ホテルに20分前から待っていて
奥さんの電話で場所違いに気がついた次第である。
結婚50年目の金婚式、東京から長女も帰り一家でお祝いの席を設けた
ということである。
尚、この長女は皇室ゆかりの茶道家元で数年間内弟子として諸作法を
学び現在は大学教授夫人として茶の道の普及に尽力している。
・・・
昭和が燦然と輝き松山の地は希望に満ちた街並みを見せていた、
松山市平和通りの、とあるビルで日本社会を震撼とさせた暴力団同士の
抗争事件が勃発する前年のことである。
土橋に在った日本空手協会「明空館」に二十歳の若者が入門する、
師範は東京の本部でも名の知れた拓殖大学出身の明星良平先生だった。
そこに今日の盟友、T・Mと九州の地へと向ったN・Uが先に入門して
稽古に励んでいた。
高校の1年違いの同窓生が3人揃ったのである。
2人は陸上部主将と柔道部出身、ひとりだけクラブ活動に縁のなかった
小柄な男が入門した、それが私だった。
特にT・Mは抜群の力量で昇級、昇段していく、先輩は瞬く間に追い越
して翻弄する、日本選手権出場の先輩達でも気を抜くと追い込まれる
程だった。
その彼は、日本全国に友人知人が出来て、社業は高専ラグビ-部主将を
勤めた長男、相撲で高校総体出場選手の次男が継いでいる。
商業界経済同友会、倫理法人会、歩きへんろプロジェクト世話人と幾多の
世話役に従事してきた、ある元市長担ぎ出し功労者として知る人ぞ知る !
「功名を遂げて」些か足元は危なげだが血色も良く言葉もしっかりして
元気なので安心した。
夫婦は金婚式だが彼と私の友情は、もう少し先を走っている、家族だけの
時間を作らせるために私は一足先に辞退した。
先ほどから隣の席では、元プロ野球選手(投手)のYがご婦人と談笑して
いた、さすが全日空ホテルは旅行客も多彩である、素晴らしい思い出を
頂いた、
友の更なる幸せを願いホテルを後にした。
男達の挽歌 盟友の金婚式 拳よ遥かに 突きと蹴り 投げの男の技は
遠い軌跡を描いて遥か彼方に見え隠れしていた。
「押忍」