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雑談

望郷  凍土の国  生きて祖国へ

私が国際情勢に興味を示すのは、幼い頃から若い頃の体験に
根ざすところが大きい。

西に海原が開け250軒の僅かな集落の後ろに段畑が東の空
に向って延びる我が故郷は、半農半漁の貧しい寒村だった。

物心付いた私の家に着古した兵隊服姿のおじさんがやって来た、
祖母と同郷のお祖父さんの息子さんで、終戦を待って帰郷した。

このおじさんに私は可愛がられることになり、2級下の息子は
私の弟のように育った。

皆親戚のような田舎だから都会と違って格別差別されることは
なかったが、それでも日本全体が軍隊帰りには冷たい社会だった。

おじさんに対する社会の矛盾は大きくなるほどに分かるように
なって行く。

私が二十歳、空手に打ち込んでいた頃、学生を中心に稽古を
していた道場に背の高い先輩が顔を覗かせた、初めての出会い
だったが、指導者のT先生、私の師匠の先輩S先生から紹介いた
だき、組手の強い先輩であることが分かった。

その先輩をA先輩と呼ばせていただく、
A先輩が先輩の愛弟子B君と私の組手を所望された、

工業高校で名を売り他の高校生から一目置かれる生徒B君との
組手は、当時いささか天狗のきらいがあったB君の自慢の鼻を
へし折る事になった。

その直後、A先輩の武道家としての矜持を目の辺りにすることに
なった、自分の弟子が私に翻弄されたのである。

しかしA先輩の礼節は立派なものだった、今日に至るまでその時の
情景を私は忘れることが出来ない、大切に胸に納めている。

それからしばらくして先輩の一家は、小さな家内工業を閉じて、
大阪へと立つことになる、それ以来先輩の消息は途絶えた。

風の便りは悲しいものだった、当時日本では北朝鮮帰還事業が
朝日新聞等の宣伝もあって盛大に敢行され、社会問題化していた。

先輩は、在日として日本に居住していた人だった、
私の交友には空手、プロボクサ-等在日の人が結構いたのである。

A先輩は礼儀を弁えた素晴らしい人で、妻と幼き子供を残して死去
した元KボクシングジムのK君と共に忘れられない人である。

北朝鮮に帰国したら、あの正義感の強い人のことだ、不運に飲み
込まれた運命だったのではないか、私は不吉な予感を抱き続けている。

北朝鮮と米国のこのせめぎ合い、帰還事業で海を渡った日本人妻及び
拉致被害者、望郷の想い悲しい日本人の安否が気になって仕方がない。

核戦争になれば最悪の事態となる、望郷叶わぬ命の終焉は余りにも
酷と言わざるを得ない。

私のブログにこの問題が載るのは、こんな経緯が有るからである。
北朝鮮核問題に発生する戦争の危機に私が気を揉むのはそんな先輩達
との絆があることも大きな理由である。

行政書士としての立場を越えて声をあげる切なさをお許し願いたい。

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