遺影は穏やかな表情を見せて私達に問いかけていた。「ありがとう、来てくれて有難う」役目を終えた安堵感で彼は微笑んでいるようでもあった。
男 女 男と三人の子供を育て上げ、晩年は仕事に苦労していた三男の事が気がかりだったが、安定した職場に就職できたこともあって自分の病気治療に専念していた。
他の友が言うには、「Sにはお世話になっている!」と常日頃語っていたそうである。
Sとは、私の事で、就職先が決まらず父親である友が私に頼んできたのである。
早速異業種を多く抱えた企業を紹介して採用され、将来を期待されていたが息子の都合で退社して親子ともども難儀していたが、再度の懇願もあって現在の会社を紹介した。
社長直々の面接もあって採用され順調に会社に溶け込んで現在に至っている、予想外の給与も支給されたお陰で長年待たせていた女性と結婚に漕ぎ着けることが出来た。
告別式が終わると息子は妻、その両親とともに報告に来てくれた、妻の父は、何と高校の1年先輩、その奇遇と縁に驚いた次第である。
気がかりだった三男坊が落ち着いたことで、友は心おきなく病気治療に努めていたが病魔は更なる幸せはくれなかった。
焼香時と遺体へ花を手向ける時に、私が彼に語ったことは、「秋の同級会に、K君が唄った ♪ なみだ坂 を唄うぞ!ふたりで一緒にな !」
花々に囲まれた友は静かな眠りについていた。
彼の息子が就職した会社は、規模拡大を続けその業界では堅実経営で通っている、社長の気にもとまり、ここにも釣りバカ日誌のス-さん 濱ちゃんが誕生しそうである !
会社幹部の私への耳打ちは、
「忘年会の席で2人はニコニコ何事か話し込んでいましたよ!どうも社長のお気に入りのようです?」
気がかりな息子の現在を喜び、遣り残したことは全て終えた父としての友の胸中が十分理解できる、彼の安堵感が死出の旅を早めたような気がしてならない。
同級生は、遺体を荼毘に付す火葬場まで見送って彼の亡骸に別れを告げた。
様々な思いを胸にSと私の車は一路松山へとハンドルを切った。
杉の子さん。
いいお話です。こういうことは、私に、真似のできない貴方の良さといいますか、素晴らしさといいますか、心に響きます。
どちらかと言いますれば、私は人付き合いが苦手です。必要最小限にすると、会社を辞めいて以来、つながりの糸を切って参りました。失礼のないようにと、心配りは致しましたが、果たして先方に通じたものかどうか。
貴方のブログを読むたび、友や知人や、仕事の関係者等々、誰にもへだてなく接しておられる姿に、感心させられます。きっと、私と貴方は、人間性が根本から異なっているのかもしれません。
貴方は貴方の道を歩まれ、私は私の道を歩くしかありません。時々しか、コメントをいたしませんが、しっかりと読ませて頂いております。ご自愛専一に。
onecat01さん、
遅くなり申し訳け有りません、
この歳になりますと、出会いの嬉しさよりも別れの悲しさが増えてきます、
身近な人を見送らなくてはならない悲しみは切ないものですね。
あなたと私はけして人間性に差は有りません、置かれた環境、リタイア組か
現役かの違いで行動が制約されるのです。
私の場合は個人経営の自由気まま、だから人間関係も自由自在にお付き合い
出来るのです。
あなたの日本国を思う愛国の精神は私など傍によることもできません、
それほど価値のあるブログを世に問うています、頭が下がりますよ。
今日の最後の訪問者は御歳90歳、今だ耕運機を運転して農業にいそしんで
おられます、かくしゃくとした物言いは見事の一言でした。
明晰な語り口で終戦間際の中国での出来事を話して下さいました、貴重な
語り部は今のうちに記録に残したい、そんな感想を抱いて辞退いたしました。
終戦の混乱、毛沢東と蒋介石の国共内戦、ロシア兵の満州へのなだれ込み !
陶土の中国大陸で死線を彷徨った日本人、悲劇の日本人女性、現地で目撃した
人間の証言は、おどろおどろしくも厳しいものでした。
記憶鮮明な今、聴いておくべき証言です、そのお年寄りとの出合いはまず、
私の方が開襟を開くことから始まりました、とおり一遍の挨拶では心を開いて
はもらえません、こちらをまず曝け出すことから始めました。
世界の中の日本、今の国会を見るといかに日本人は恵まれているか、殺すか
殺されるかの弱肉強食の世界、大和男子よ志高く世界を見据えよ !?
コメント有難うございました。