のどかな日曜日の午後、私は公園でまどろんでいた。上空の寒気を切り裂いて、というよりも浸潤させて、淡い青緑色の大空から太陽の光が降り注いでいる。
近日の多忙の揺り戻しか想像していた以上に身体が癒しを求めて、運転席でしばしの間うとうとしていた。
数台の車と愛犬を連れた家族連れが日向ぼっこを兼ねて散策していた。
庶民の本当の幸せはこんな平凡に有るのではないかと思っていた、何気ない平穏、皆平等の景色 ! 私がこよなく愛する日常の風景をそんな風に思っていた。
まどろみの中で、ある言葉が浮かんだ・・・
「奇跡!」
私が初めてこの言葉を知ったのは、子供の頃に目にしたアメリカからのお客様、三重苦の女性ヘレンケラーさん来日の記事からである。
ヘレン・アダムス・ケラー
生後19か月の時に高熱にかかり、一命は取り留めたものの聴力、視力、言葉を失ってしまう。
家庭教師サリヴァン女史
小さい頃から弱視の経 験を持つアン・サリバンは、ヘレンに「しつけ」 「指文字」「言葉」を教え、絶望視されていた「話す」ことを可能にして、その後約50年間に渡り教師、友人としてヘレンを支え続けた。
この2人の出逢いと運命を、私の深層心理は「奇跡」と捉えて離さない。
仔細は公表できないが、私の運命で考えられなかった出来事がある、私はそれを「奇跡」と呼んで注視している。
人と人との縁、展開する世界は誠に不思議と言わざるを得ない。運命とは、人間の力では計り知れない未知なるもの ?
宿命とは人命で変えられない宇宙の掟、人間とは小さく儚い夢。
何気なく見逃す中に真理が垣間見える、それを見つけ掴めるか人の運命とはそんなところにあるような気がする。
人間界、その内の日本、その時代を共有する僅かな出会いでまじ会う人間同士、これひとつとっても奇跡である。
それなのにいがみ合い、傷つけ合う人間同士、そんな所に奇跡は有り得ない。
「奇跡」
もし、その奇跡が私に起こり得るならそれだけで生きて来た価値がある、神の存在を信じる、お天道様の絶妙な采配に感服する。
公園の木々に集まる小鳥たちが太陽の恵みに触れて歓喜している、 幸せとは、こんな小さな平穏の集積である。
我が人生に、人との出逢いに ・・・ 乾杯 ❣️❣️