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思い出

青春にありがとう

青春にありがとう

私のブログは夢見る少年の心、こうありたいとの願望の思い、そして過ぎ去りし過去の追憶、それらを網羅した自分史だと考えている、それは遺言としての位置付けである。

コロナに鬱血する世相を一旦忘れて面白い回顧をしてみよう。

自分は果たしてどれだけ他人から殴られただろうか   ?反対に人に手を挙げた回数などどうだったか振り返って見る。

幼少の頃と小学生時代は殴られた記憶はない、中学に入って一度だけ同じ高校に進む同級生に理由も分からず突然ビンタを食らった事がある。

教室で数人で話している最中の出来事である、横から不意に平手が飛んできた、小学は別々のクラスだったからお互いの性格が分からない、そのゆえの誤解だったのだろう   ?

何が何やら分からない、人それぞれに性格があることを理解した、その彼はそれまで群を抜いていたガキ大将の頬も平手でバシッ!とやらかした、それをキッカケで2人は仲良くなって行く不思議な少年の心理だ。

高校は大変だった、八幡浜市の隣町川之石の県立高へ進学した私達だったが、Y高、U水産高、U高、Y工高、O高、これらの高校生とすれ違うのである、一年生当時は大変である。

自校は当然だが他校の先輩と出会おうものなら、見えた位置で帽子をとってご挨拶、それも気合を入れての発声である   !

2年の時が一番もろに来た、上級生の待ち伏せで数回、脅された、殴られることはなかったが、日々彼らのキツイ視線に晒される。

私と従兄弟はどうって事ないのだが、3年で番長になるMを他校の先輩達は要注意して、Y高柔道部の先輩の待ち伏せに遭い、彼ら2人は町の裏通りで対峙した。

勝敗はつかず通りかかった大人の仲裁で矛を収めたがMの名が各校に響き渡るキッカケになった。

私に話を戻すと、このMのおかげで3年生の時代は呑気なもので、泰平を貪ることになる、誰一人歯向かってくるものはいなかったが、一度だけ、仲良しの同級生にこれも不意打ちでビンタを張られた。

又、その理由、意味が分からずじまいだった、どうも私はつい不用心に言葉が出るようで相手にとってはカチンとくるのだろう   !私の変わらぬ欠点である、だからサシで向き合って闘った経験がない。

気難しい教師がいて、授業中手に持った教材で頭をガ~ン!とやられた、これなども授業中なのに横の生徒と雑談するから先生が怒ったのである。

以前のブログで触れた高校の農業助手からの!不意打ちビンタ    !これが一番キツかった、今振り返ると懐かしい思い出である、私が空手を習うに当って打撃に対する耐性が人より強かった原因がここにある。

精神的な忍耐力、事に臨んでの平常心、これらが備わっただけでも意義がある、こうしてみると人生経験に無駄はない、受け取り手の解釈次第で毒にも薬にもなる、頬の痛みはその勲章である。

高校以降に面白い逸話、実戦が◯度有るのだが省略する、空手は伝統流派だったのに、直接打撃に対応できたのも、これらの経験が生きている、突きと蹴りはどちらかといえば耐えられた方だろう。

最後に強調するのは、昔の生徒は先輩後輩の序列がきちんと出来ていてどこまで許されるか、どこでやめておくべきか、被害者の状態を見てブレーキがかかっていたが、

現代はその程度が分からない為とことん行ってしまう、殺人として人々の心を寒からしめるので有る。

生まれた時代が良かったと思っている、進める訳ではないが、痛い思いをするのも人生勉強の上で必要だと思います。

ここまで説明して分かると思うが、ビンタの一つや二つで私はカッとならない、ある意味冷静でした、腹の底から怒りが湧くのはもう少し相手が理不尽な場合である。

それと当時は気の小さな学生であったと言う事、だから喧嘩が出来なかったのである、

喧嘩が面白くなるのは空手を習ってから、結構手玉に取るようになりました、それと冷静さは人より秀でていました、変わった男だと言う事ですね。

懐かしきかな悪友達   !   麗しき乙女たち、全てが私の教材でした。

思い出さんこんにちは、今、自分が有るのはあなた達のおかげです。

経験豊富な人ほど記憶の泉の水量が増す、記憶が重なるほど今度は溢れてくる、それで物忘れがひどくなる、都合の悪いことは忘れがち、私に嫌な思い出のある人は、お許し願いたい。

当人は黄昏に向かって物忘れ街道を真っしぐら、 ご勘弁を !

青春に万歳    青春にありがとう         !?

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